深田久弥による恵那登山 -その1-
深田久弥が百名山取材の為中津川を訪れたのは昭和35年4月20日だった。嵐の中、新幹線も無い時代に東京から鈍行列車を乗り継いでやってきた。翌4月21日朝、駅前の十一屋旅館を出れば風雨一過の極上の天気に恵まれたのである。この山行に同行したのは、当時中津川市役所商工観光課の藤原孝寛さん、小木曽宗輔さん、市役所山岳部の糸魚川亨さん、北恵那交通勤務で恵那山と黒井沢に詳しい安藤卓造さんであった。一行はその前年、昭和34年に開通したばかりの初期の黒井沢ルートから恵那山に登った。登頂後はそのまま神坂峠ルートで萬岳荘まで縦走して宿泊。翌日(4/22)富士見台に登って山を下りている。

この時の紀行文は、雑誌新潮に連載記事として掲載された。翌昭和36年5月20日には他の20座の紀行文とともに、単行本『わが愛する山々』の初版として出版された。この紀行文はさらに編集されて、『日本百名山』として出版されるのである。後年それが中高年のピークハントブームを生み出したことはまぎれもない事実であるが、その是非はともかくとして、深田の紀行文を読まずしてブームを追うのは空しい。彼がどんな視点で恵那山と対峙していたのか。何を見て、何を感じて帰ったのか。我々はもっと深く知る必要があるのではないだろうか。
昭和35年4月21日 1992m峰付近(?)

写真はすべて安藤卓造さん提供によるものです。
昭和35年4月21日 山頂避難小屋の裏にて深田夫妻を囲む

昭和35年4月22日 富士見台山頂のスナップ

昭和35年4月22日 下山途中に立ち寄った馬篭(?)

深田らが前宮ルートを登らなかった理由
恵那山の正面玄関は当時も今も前宮ルートである。前年伊勢湾台風の被害を受けてはいたが、まったく歩けない状態というわけではなかった。では何故前宮ではなく、黒井沢だったのか?それは当時の小屋の写真が大きな手がかりとなる。

これは深田らの登山の翌年、昭和35年6月6日に撮影された山頂小屋である。深田久弥らはこの状態の小屋を見たはずである。石垣は崩れ、屋根も一部剥がれている。前宮ルートは長くて険しい。日帰りは健脚者に限られ、深田の様な中高年登山者が婦人連れで歩くとなると、どうしても山頂で一泊する必要があった。しかしこの状態の小屋に著名な作家夫妻を泊めるわけには行かなかった。必然的に所要時間の短い黒井沢ルートが選ばれたのである。開通したばかりの黒井沢新道を売り出す絶好のチャンスと関係者が捉えたことも、もう一つの理由として容易に想像できる。尚、荒れた小屋が改修されるのは翌昭和36年になってからである。

改修された山頂避難小屋(昭和36年7月撮影)
深田らの辿った黒井沢ルートとは?
深田久弥らが辿った昭和35年当時の黒井沢ルートは初期のルートで、現在のルートとはかなり異なっていた。昭和37年に野熊の池を経由するルートに変更され、最終的に現在の様に1992峰のコルから岐阜県側を巻いて水場を経由するルートが完成したのは、昭和40年になってからであった。
黄線:当時の黒井沢ルート
赤線:現在の黒井沢ルート

この画像は国土地理院発行の1/25000地図画像飯田を使用して出力した。
参考文献:
永井毅著、恵那山と生きる、岐阜新聞社発行1991年3月20日第二刷
深田久弥著、わが愛する山々、新潮社昭和36年5月20日発行
@恵那山、コラム恵那山watch 2005年10月22日号